・・・寝られない。
少し、興奮しているのかも知れない。
さっき、兄が来た。
海に連れていってくれると、言ってくれた。
海。そう、海。
見たことのないもののうち、もっとも大きなもの。
行ったことのない場所のうち、もっとも広い場所。
どうしよう、寝られない。
まだ、こんなに興奮することができるのだ。
こんなに明日が待ち遠しいと思えるのだ。
これはつまり、生きることが楽しいことの証というわけで。
わたしは、人生の最後の時間を、好きなように生きている。
・・・現在、深夜一時。
やっぱり寝付けない。
徹夜なんかして明日のために体調を崩したくないのに。
けど、今夜は妙に頭がすっきりしている。
もう少し、哲学してみよう。
死について。
どうして人は死ぬんだろう、死を恐れるのだろう。
このことを、わたしはずっと考え続けてきた。
正直、まだちょっと怖い。
死ぬこと。これはとても怖いことだ。
けど、人はいつか死ぬわけで、死ぬということは避けられない定めで。
アポトーシスで、進化の結末で、遺伝子の意思で、細胞の死滅で、生きとし生けるものすべてのルールで・・・。
けど、それは、どうしてだろう?
少し、考えてみます。
仮定1・・・死への恐怖は、ただの遺伝子の本能的なものである。
仮定2・・・死への恐怖は、繁殖を保護するためである。
・・・そうだろうか?
死は遺伝子によって決められて、それを恐れる心もまた遺伝子によって設計された。
ここに矛盾がないだろうか?
じゃあ・・・恐れって、何のために?
この前、興味深い意見を見つけた。
科学雑誌のコラムで、進化と遺伝子について扱っていた。
一つの個体が永遠に生きると、生物としての多様性が失われるという。
例えば、人間が冷凍睡眠して五百年後に蘇生したとする。
・・・似たような小説がある。あの素的な猫が出てくる外国のSF小説だ。
けど、あの小説みたいなことは起こり得ないという。
なぜなら、五百年後の世界は、今いる世界の延長線上に見えても、大気や細菌などの面で、今の世界とは全く異なる組成を持った未来だから。
そんな世界に、現代人間は適応できないのだそうだ。
五百年間の世代交代で培った抗体を、現代の人間は持っていないから。
だから、きっとその人間に訪れるのは、輝かしい未来社会での生活ではなく・・・死。
こんな倫理観を持ち出すまでもなく、人はその時代を生きることが正しい。
死。
わたしはどういう風に死ぬんだろう。
わたしが死んでいく様子を、誰が見るんだろう。
そして、わたしは唐突に気付いた。
明日、海を見る。
ずっと見たいと思っていた。
それを、明日見る。
わたしはそのことに、とても満足できるだろうという確信がある。
そう・・・つまりそういうことだ。
人が死を恐れるのは、やり残したことがあるからなんだって。
だから、自分のなすべきことを終えた人は、安心して命をまっとうできる。
その時、人は死を克服する力を手に入れる。
聖書に確かこんな一文があった。
死ぬ日は生まれた日に優る━━━━。
何も知らずに誕生してくる日よりも、多くのことを知って、より大きな人間となって死に逝く日は、決して劣るものではない・・・確かこんな意味だったと思う。
わたしは・・・生まれた日よりは大きくなれたよね?
だから・・・だからね、お兄ちゃん。
わたしは臓器バンクにドナー登録をしました。
まだやるべきことがあるのに、死ななければならない人のために。
そんな人が、たった一人でも自分をまっとうできるように。
だから・・・ショックを受けないで下さい。
HLAが適合すれば、その相手は香奈ちゃんになると思います。
あの子には、まだ見てないものが多すぎるから。
願わくば、明日のわたしが、今日のわたしより優れた人間でありますように・・・。
○月×日。
今日、海を見た。もう怖くない。